movie
2012年
1月
06日
金
昔のお仕事から。
と、いうわけで、昔のお仕事からピックアップ
昔お仕事で半年ほど第三セクターでお仕事をする機会がありました。そこで主におこなっていたのは、広島県のかくちのPRビデオ作成。。。。。それが今、youtubeに移行していたようなので、とりあへず、
自分の声がするものをあつめてみました。
あぁ。。いろいろ突っ込みどころはあるとはおもいますが、何故10年近く昔のものです。
ここにはないものがあといくつかあったきがします。懐かしいです。
まさか、youtubeから流れてくる日がくるなんて。
何にしろ、
半年で30本以上も声の担当をさせていただけたこと。
本当に、感謝です。もちろん、社会人としての経験も薄かったので、いいことだけではありませんでしたが、いまの半年とはまったくちがう時間の流れで、いいことも、そうでないことも、全部ふくめて。自分を構成している時間の一つなのだと今が思います。
2010年
7月
05日
月
iPhone4で室内を撮った動画をアップしてみる。softbankのお父さん。
iPhone4になって、3Gから機種変更。
3Gから4にすると、なんだか劇的に違います。もろもろ。もろもろ。
そのなかでも、動画を撮影する、ということは、3Gでは不可能なことだったので(ツィキャスとかは別。)とりあへずテスト。
室内のトイレなので、証明も白熱灯系のなか、フラッシュなしでの撮影です。
2010年
4月
20日
火
おくりびと。
おくりびとを、みました。
本木さんと、広末さん主演の、「おくりびと」を、みました。
やっと、みた。
感想。
出だしは、思っていたよりも、面白い展開だったこと。
そして、中盤では泣いてしまいました。
泣いたというより、なみだぐんだというか。
大事な人がいるひとや、
近いだれかを亡くしたことがあるひとは、
何かしらかぶせて考えてしまうかもしれません。
人間として扱われるということ。
すごくかんじたのは、
納棺するひとという仕事は、
人生の終わったあと、生きていたものとして、「人間として」扱われる最後のかかわりをもつ他人
なのじゃないかということ。
逆?にいえば、
このひとたちが、人間として最後に自分?を扱ってくれる人たちなのではないかということ。
したい・ではなく、人として。
最後までひととして接してもらう
これは、じつはとても難しいことなのかもしれないと思った。
映画のなかにも出てくるけれど、
ひととして、ではなく、「もの」として扱われるシーン。
あれは、くやしい。そして、かなしい。
自分は?
自分は人としてあつかわれたい。
息をしていなくても、鼓動をしていなくても、
焼けついて、灰になるまで、人間として扱われたい。
自分の大切なひとたちは?
自分の大切な人たちは、
最後まで人間として扱ってほしい。(身内は当然として)かかわるすべての人に。
強制ではなく、当然のこととして、人として、あつかってくれるところ、そうでないところ、とがあるのであれば、前者がいい。
そこに金銭がかかるとして、そうであるならば、ものではないかといわれるとしても。
映画をみながら、いろいろなことをかんがえた。
映画をみるまで、葬祭にかかわる人に偏見があるということを、知らなかった。
生まれるということも、亡くなるということも、
同じくらい大切なことだとおもう。
思った。